今日は、秋元先生が来て下さっているので、少々余裕があり、私の親について書いてみたいと思います。
2つ叱って、3つ褒め、と言葉を書きましたが、私は親に褒められた記憶はありません。 叱られた記憶ばかりです。私の従妹も同じ事を言っていたので、当時はそんなものだったのか知れませんが、長女なので、親の不満のはけ口になっていたのかも知れません。 後年、私が医師になってからは、「良い御嬢さんがいますね」 と言って下さる方もいたのですが、いつも母の答えは 「放っておいたらこうなった」 でした。
母は、6歳の時に母親が死亡したので、替わりにご飯を炊いて支度をし、弟の面倒をみたり一家の主婦代わりもしていました。そこは、偉かったと思います。そして、勉強は大変良くできて、学校が大好きでした。 通信簿があって(成績表です) 全部 ”甲” と言うのが一番良いのですが、”乙” が一つだけあって、残念で、残念で、次の学期まで、そこを、これさえ無ければ、と擦っていたら紙がこすれて、乙 の字が消えちゃった、と言っていましたから、面白い面もありました。
それなのに、私が小学生の時、担任の先生から、「明子さんは本当は XX も 5 なんだけど、どうしても今学期、5 を付けてあげたい子がいるから 4 で良い事にしてくれない?」 と言われて、 「良いです」 と答えているんですよ。 ちょっとちょっと! 本当は私は全部 5 なのに、そのおかげで4 が1つ入っちゃったんですよ。 自分のやった事と違うんじゃないの。 でも、母が亡くなってから、遺品を整理したら、私の全部 5 の成績表が 1枚だけ出てきましたから、 (他の兄弟のは無し) それなりに思っていてくれたんでしょうね。
これは、成績の自慢をしているのではないので、誤解しないで下さいね、凄い田舎の生徒も少ない学校ですから、あまり自慢にはならないです。こんな子は五万といたと思いますよ。
母が若い頃は、女性で大学に行く人は極めて稀でしたが、母は、今の静岡大学を受験しました。 その折、体育の実技があったんですが、それを知らず、ブルマー という当時の体操着を持って行かなかったので困り、何と通りかかった見ず知らずの大学生に頼んで、貸して貰ったと言っていました。 凄い!
どうも母は、一家の主婦代わりをしたりして、偉い、偉い、と褒められてばかりいたようで、いろんな事で表彰されていたようです。だから私が何をしても、不満だったんでしょうね。今は、懐かしい思い出ですし、母を人間として見るのでどうって事は無いんですが、それにしても、もうすこし褒めても良かったんじゃないかと思います。 母が働いていたので、私は、高校から帰ると、食事の支度をし、家事全般を担当していました。 大学の時も夏休みに家に帰ると、母が全く立ち上がらなくても良いように考えて、先へ先へといろんな事をしたものですが、ありがとう と言われた事は一度もありません。きっと、そんな事は母の中では当たり前だったんでしょうね。母の中での、私への期待値が大きかったのだと思います。 母は、 ”2つ叱って、3つ叱り、叱ってばかりで、放っておく” という育児だったようです。 アッ、もしかしたら、私は、もう少し褒めて貰えたり、教えて貰えたりしたら、良き人になったのかもしれないという気がしてきました!